奄美群島内で焼酎の製造がいつ頃から始められたのかは定かではないが、既に琉球王朝の時代には、その人的交流の深さから推し測ると、16世紀半ばには泡盛が飲まれ、かつ製造の技術も伝えられていたのではないかと考えても不思議ではありません。
江戸末期の焼酎つくりについて詳しく記述した、名越左源太『南島雑和』という書物では、米、甘藷、椎の実、蘇鉄の実、粟、桑、百合の根、南瓜など様々な原料がもちいられていたと記されていますが、当時の農民の悲惨な生活状況から推し測ると、貧困の差によって使用原料が異なっていたと見るべきでありましょう。この中に「留汁焼酎として砂糖黍をすました汁を入れることあり、至りて結構なり」と示されており、ここに黒糖焼酎の原型を見ることが出来ます。
明治時代、政府は次々と酒税政策を打ち立てて酒税確保のための基盤整備を行っていくことになりますが、当時の奄美群島では、焼酎は購入するものではなく、主婦が味噌や醤油などと同じように自宅で造るという認識しかなく、焼酎は商品として販売もされていなければ、販売のための製造もされていませんでした。明治31年(1898年)自家製造を中止し、集落毎に共同醸造所の設備を推奨したため、一時は222件の免許が交付されていましたが、税収確保のためには小規模業者の排斥と有料業者の保護育成が必要との判断から、次々に免許の縮減を断行し、明治44年(1911年) 7名の免許業者を残すのみとなりました。大正3年(1914年)〜22年 次々に新しい製造免許が付与されるようになりましたが、それでも郡島内の需要を全量賄うことはできず、3/4は沖縄(泡盛)、本土(甘藷焼酎)からの移入に依存する状態でした。その後も、動乱の時代に突入し、度重なる戦争によって入手できる原料は極限され、供給体制が充足されなかったため、戦時中からアメリカ軍政下の時代に至るまで群島内では、黒砂糖を含む様々な原料を用いた密造酒が造られ、流通し、愛飲されていたといわれています。
昭和28年(1953年)12月 奄美群島 日本復帰後黒砂糖を原料として焼酎が製造されていた実績を斟酌し、特別の措置として米麹を使用することを条件に奄美群島にのみ黒糖焼酎の製造を認めたのであります。
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